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ヤマギシ会の歴史

身在此山 (发表日期:2017-07-15 09:37:07 阅读人次:2608 回复数:2)

  1.ヤマギシ会の歴史

  


  
1 ヤマギシ会の誕生

  
後年、ヤマギシズムの提案創設者となる山岸巳代蔵氏(1901~1961)は昭和28(1953)年3月、山岸式養鶏法普及会が結成されるまでは京都市の南郊伏見・向島の宇治川畔で一町六反歩の田畑と鶏200~300羽を飼う一農民にすぎなかった。それも戦後生活が年と共に厳しくなり、芋と水の生活さえも続かず、心ならずも自活農業を始めざるを得なかったからである。

  
山岸巳代蔵

  
戦後日本農業は、急進的といえる農地改革からはじまる。この改革で日本の農村から地主も小作人もなくなり、農民が自分の田畑を所有してそれを耕す自作農になった。おりしも食糧不足ということもあって就業者の二人に一人は農・漁・林業に従事した。食糧の輸入は年々増大して、昭和27年には米麦合わせて2200万石近くもの食糧を輸入している。

  
しかしやり始めてみるとこれは結構な職業で、反復作業が多く、体さえ動かしていれば頭はかえって思考がまとまり、好都合であった。反面日本農民の気の長さ、人のよさをつくづく知ることになる。このよさの意味は無智・無能・狭量・偏見・自己を知らないあがきの日課を見ての嘆息である。一応真似て、小さく畔で囲った田で、土蜘蛛のように這って、泥臭い田面を手で掻きまわし、採れ共刈れ共魔物のように執拗な稗に人間の馬鹿さを知り、農協に赤字を嵩さました肥料で、病虫害と倒伏を迎え、米を穫らずに藁採る方法を覚えたという。もっとも草採りは一年限りでやめて、栽培法も過去専業時代の養鶏法も織り込んだ形で年々従来のやり方を変えて、四五(よんご)農法といって労働標準1週45時間勤労で成立つ省力農法を目指した。

  
ここでいう四五農法とは、世界標準労働時間を意味するもので、必ずしも45時間が理想でなく、これは今日の標準であっても、将来は益々短縮され、一週10時間か5時間位の労働で済まされべきで、日本農業もそこまで合理化されないと貧乏と過労症から解放されないし、そもそも農業経営自体が立ち行かなくなる時代を見通してのことだった。

  
そこで着目したのは稲作と家畜の密接不離の関連で、稲作だけでも春秋の農繁期で忙しい農業に、逆にもう一つ養鶏を加えて、今までの経営上や技術面の弱点の解決を一気に図ることだった。さしあたって今一番求められている米の増収と価格の引き下げに、根本的に大きな役割を持つものは養鶏だと痛感したからである。それを自分でも数年間百姓の真似事をやって見て、益々その必要を感じ、今なお次々と気付きつつ、一般農家の参考に供していたのである。

  
その実際を、今少し山岸巳代蔵著の『山岸会養鶏法』等などから見てみよう。

  
昭和27(1952)年当時の営農規模は

  
表作 稲 一町三反歩(畑一反歩)

  
甘藷一反歩

  
果菜一反歩

  
裏作 小麦一町一反歩

  
裸麦一反歩

  
菜種一反歩(半湿田)

  
蔬菜二反歩

  
鶏200羽~300羽で

  
例えば鶏の飼料のうち、粒餌・緑餌・屑殻糠・芋類は田畑からの小麦や甘藷や野菜屑やモミガラで自給飼料化し、購入飼料は幼雛用配合飼料若干と魚粉・糠類に過ぎないが、鶏の生産鶏糞全部を自家耕地に施す分の購入肥料代が最大限飼料代に転用出来るから、購入飼料代は僅かになった。要は農耕があって養鶏がよくなり、養鶏を織り込んだために、耕作面にも尚増収する完全な農業形態の一環であるところに特異性があった。

  
そのためには養鶏法も、成鶏300羽~500羽が一日一回給餌で一時間以内の管理で能力一杯に産卵し、鶏糞は鶏の健康を保持するために、かつ臭気もなく乾燥さすためにも全部取り出さないなど、鶏を飼って忙しくならないように組み立てられていた。また同時に農法も米の増収と生産費を下げるために、それに合う羽数の鶏を飼養し、その鶏を飼う飼料をその耕地で栽培するために小麦等を作付けして、小麦を作ると地力を消耗するが、鶏糞多施によってかえって年々高まり、その跡に稲を作付けると無肥料で健全な稲が出来て米を増収する米-鶏-土-米の因果循環の環を活用した。

  
しかも自家消費の原価の安い卵や廃鶏肉を常食することは、日々のことであり、農家の家計や食生活や健康面で多大のプラスになり農家らしい豊かな生活を営める内容をも備えていた。

  
こうした農業と養鶏を一体に結び付けたもので、農業があって養鶏が成立ち、養鶏があって農業生産が向上し、かつ農家でなければ出来ないという意味で、”農業養鶏”と呼ばれたのである。

  
今すぐにでも、今あるままで自然に溶け込んだ、不安のない確立経済の下、人間らしい生活の園・モデル農村建設の構想を樹て、これの実現を図りつつあったのである。そこは例えば毎年何処かの河川が決壊し水害を被っているから、河底の土砂を堀り上げて、広い岡のような小高い堰堤を築き、そこに農家住宅を建て連らね、眼下に耕作田を展開して米麦を作り、屋敷も各個に二反歩以上を持ち、傾斜面に温室や育雛舎・苗床を、広い宅地畑から新鮮蔬菜・果実・草木花・畜産物などを豊富に生産し、一方目を転ずれば、堤防上の果樹・桜楓を透かして清水の流れる爽快な風景を眺め、河川敷の家畜・水禽の戯れに気を養い、何物にも縛られぬ悠々とした心と時間にゆとりのある生活を描いていたのである。

  
その一方において、戦後まもなくの日本は、物心共に乏しかった。とりわけ米不足1000万石の解決は緊急を要した。山間部の開墾や何畳敷かの三日月田まで奨励され、食糧の輸入まで実施されていた。そんな中で山岸さんは、一町六反歩の耕地と鶏とその他で忙しくしながらも、耕種農業を営んでいる農家の実態を味わい、零細な農家の姿に触れ、今日の日本の食糧及び経済環境の中に住み、世界的に見ての日本の役割などについて思い巡らしていたのである。というのも、国破れて山河ありの日本という地に現在の日本人が住んでいるということ、しかも未だ虚脱状態から抜けきれず何物かを求めており、新しい力強い最も正しい、真の安定の世界を望んでいるという事実に立って、世界に通じる日本として他国に援助を求めず、又他国を侵略することなくして、最も乏しい日本を豊かにする方法について、はっきりした一つの見解を有していたからである。ある意味では今の日本人の物質欲求、及び心理的傾向は闘争のない安定した親愛の世界実現の第一歩としてサンプルとなるに格好の小ささと条件を備えているともいえる。長年温めてきた理想社会へ通じる知的革命を遂行するに絶好の状態にあるともいえた。

  
そのためにはまず

  
○人間として最も大切な人格上の点で反省して、自身の頭脳・技術 ・社会人としての教養・人格・肉体など、実質・外観共に歓迎 される優秀人となること。

  
○物を豊富にすること。

  
○社会機構を正しきものに組み立てること。

  
などなどあげられるが、それらには皆単に理論・目標のみを並べるのみでなく、かつてない方法でいとも簡単に混乱なくして争いのない理想社会を実現さす法のあることを確信していたのだった。

  
もちろん養鶏を営むにしても、たかが養鶏ぐらいと思わずに、たしかに養鶏そのものは全体経済面の一小部分に過ぎず、社会構成の上からも、一般から見ての関心も薄いが、こうした顧みられない一隅からでも、僅か一箇の鶏卵にも、自他を豊かにする大きさや社会全体を動かす始動力となることをすでに知っていたのである。

  
青年時代(19歳から21歳の頃)、人生および当時の社会組織に疑問を抱き、それの探求に没頭、昼夜の別なく参考書を読み漁り、心身を酷使しながらも、二百年後を目指した理想社会の実現を計画し、その後、当時見つけ出した”真理”の再検討のために既に半生を費やしてしまっていた。

  
そもそも養鶏をやり始めたのは、当時一端を洩らしたのみでも、再三拘引留置などの圧迫を受ける状況下にあった秋の一日、郊外に出て読もうと一書を携えて葛飾(東京)方面へいった時、又尾行が付きだし、撒くためにある会社へ飛び込んだのが、日本家畜産業会社だった。そこで種鶏舎に飼われていた純白の白レグの美しさと、広い建物の中に整然と並べられた孵卵器や育雛器の中の可愛い雛に愛着を感じ、かつ自分が把握した社会組織のあり方を鶏に応用実験すべく、郷里滋賀に帰って養鶏(人工孵化)に着手したのがきっかけだった。大正11(1922)年22歳の時だった。

  
その後昭和6(1931)年春京都へ進出、一時に5000羽の雛を入れたりもしたが、おりしも鶏界大不況に見舞われ、卵一個一銭より下値で売ったりしてすっかり行き詰まり大整理をして、小さな貸鶏舎へ移転し、自家採取・母鶏孵化で採卵一方にし、雇人もやめ、今までの交友係累を断ち冗費を省き、別の仕事も一旦中止し、すべての作業一切を自身で片付け、約二年間養鶏に心身共に打ち込んで働いた。その当時に組立てたものがやがて山岸会養鶏法の原型になるのである。その後風害に遭遇し、それを機会に又々移転し、それからは順風満帆で、上得意先は思いのままに選択する自由を得た。しかし、戦時中でもあり統制経済で面白みがなくなり、且つ当初の計画羽数延べ十万羽を遥かに超えたので、廃業して年来の仕事に専念すべき京都・向日町の現在地に移住して数年目に、こうして心ならずも自活農業を始めたのであった。もちろんこの時点では、養鶏法についても未完成で絶対的なものではなく、自らは他に勧奨したり公表する気はさらさらなかった。

  
それでもたしかに不況になり採算不利になっても成立っていく無限の弾力性のある養鶏法の真価は既に実証済みであった。戦時中の飼料欠乏時代に山岸さんは京都専業養鶏組合の責任者の要職にあったが、鶏を維持するために麦糠・粟・稗糠・焼酎粕のような牛も好まぬ粗飼料を多量入荷して組合員に配ったことがある。ところが組合員の多くはそれを鶏に与えて鶏を痩せさせ、産卵を下げてしまった。人が鶏舎へ近付くと餌を求めて一斉に鳩のように飛んで来る、餌が足りないのかと給餌器を見るとほとんど食べずに残っていて、散々迷惑をかけたという。強硬派は山岸さんの鶏舎へ押しかけるが、鶏は静かに皆満腹して落ち着いて肥って真っ赤な顔して満足そうに卵を産んでいる。そこで責任上粗飼料を美味しく食べさす方法について説明すると一応納得されて帰るが、後で結果を聞くとどうしても食べないから餌は他へ譲って鶏も売ったとの報告で不足顔。こんな主人に飼われた鶏も多分不足顔でハンストしたのでしょうとサラリといいのけている。また、鶏の国も様々です。競い合うといって狭い独房に閉じ込めて寿命を縮めるカンゴク部屋でシボリ上げられている鶏と、その臭気の中でシボられている労力安売りの今の日本人の縮図を撮影しておいて子・孫への語り草にすることだともいっている。こんなところにも農業養鶏とは科学的に且つ社会学・心理学をも織り込んだ基盤の上に組織だったものであることがうかがえる。

  
しかし、多少はユニークな鶏の飼い方をやっているからといって、一町六反の田畑と鶏200~300羽の稲と鶏の組み合わせから、理想の社会実現までは、どうしたらつながっていくのだろうか?

  
日本中、世界の隅々まで皆が幸せになれるようにとの願いは誰もの願いでもあるはずだが、そのことを鶏を数百羽飼うことに込めつつ且つ体からいのちがさよならしたら止めるつもりで悠々と書き綴りながらも、この時点では誰にも知られていないし、本人も親切の押し売りまではしなかった。だからこのまま、誰からも理解されることもなく秘められた実態のままで終わるかも知れなかったのだ。 ところが、稲作農業を始めて2年目の秋、昭和25(1950)年に、ジェーン台風が京阪神を中心に猛威を奮って出穂間ぎわの水稲がほとんど倒伏してしまった。この一面の倒伏の中にあって、実に珍しく一区画の田だけ見事に立ちそろっているのを発見したのが、台風被害の実地踏査をしていた当時、京都府の農業改良普及員の和田儀一さんである。

  
和田さんはすぐに山岸さんを訪ね、その人柄に触れ、これほどすぐれたものをここだけにとどめておくことの惜しさを痛感し、心進まぬ山岸さんを口説いて、講演に引き出しにかかったのである。ところが講演が始まってみると、従来からの養鶏法とはかけ離れたもので、今だ聞いたことも見たこともない方法である。農協の技術員等はあんなことで果たして鶏が育つものかと気が気でなかったという。しかし、なかには決断よく実行する人もあり、すると一人の例外もなく立派な成績をおさめたのである。当時は人間の食べ物さえ欠乏していた時の養鶏で、自家保有米も餌に変えたりと無理算段して半年の心棒後の初卵を見た時は、苦しみが大きかっただけに感激も一入であったという。

  
ところがなかには百姓仕事に忙しい山岸さんを訪ねても「人の迷惑も考えずに、昼の日中に自分のために来るのはどうだか」と叩かれる始末であった。技術だけで養鶏はやり通せるものではない、もっと大切なものがあるとは山岸さんの口吻であった。このままではせっかくの素晴らしい技術も中絶の恐れがある。何としても山岸さんが必要であるのだが、今のままでは来て下さいと折り入って頼み込んでも来て貰えそうもない。そうだ、この養鶏を全国に普及するための会をつくるに限る……。

  
そこで早速和田儀一さんにその相談を持ち掛け、山岸さんに伝えてほしい旨を何人かの有志が申し出た。それからである。山岸さんを含めた何人かの有志で、会結成についての話し合いが始められたのは……。

  
まず新しい養鶏を普及する主旨の会であることから、この養鶏の創始者の姓をとって「山岸式養鶏普及会」とすることに衆議一決した。ここで山岸さんは一同に特に大事な提案があるからとして「養鶏普及会は実に結構なことであるが、私の体験からも、又若い頃から考え続けた私の考えや、社会の実情からしても、養鶏普及だけの会であり活動であれば実に危険で、むしろそれなら始めからそんな会をつくらない方がよかったと気付く時が必ず来ると思う。皆さんも感じられているように、これは実は、鶏であって鶏でない。本当は鶏も含めた根本的な不可欠の大事なものがあると私は考えるのだが」と述べている。

  
そこでみんなが「大事なこととは何か」と尋ねると始めて山岸さんは、かねて用意していた山岸会の趣旨・方法についての成案文を提示した。提示された趣旨・方法に一同はなるほどと共鳴共感し、普及会と同時に並列的にもう一つの会を結成しようということになった。その会の名称は藤田菊次郎(初代会総務)さんの発案によって「山岸会」ということに決定したのである。 

  
結成の日は昭和28(1953)年3月16日と定められ、当日は京都府西向日町の林田定三氏宅に二十数名の発起人が集まって、ここに歴史的な「山岸会」並びに「山岸式養鶏普及会」が誕生した。 こうして山岸会が結成されたものの、集まってくる人達のほとんどが養鶏に関心のある人で、話題はすべて養鶏技術に終始していたようである。そこで、毎月16日の昼間は養鶏専門研鑽会、夜からは精神面の研鑚をするというように、二本立ての研鑽会を開くようになった。この夜の研鑽会は自ずと「夜明かし研鑽会」に発展していった。夜明かし研鑽会というのは、徹夜で研鑚することであり、一々具体的な主題によって究明しあっていくもので、東の空が白む頃、集まっていた人達の心に何かしら言い知れぬ喜びがこみあげ、暗い憂鬱な何の希望もない昨日までの生活が一夜にして明るい希望に満ちた今日になっていたり、鬼婆さんといわれた姑が一夜を明かして帰るとたちまち仏婆さんになったり、行き詰まった養鶏が夜の引き明けと共にすっかり道が開けて鶏がぐんぐんよくなったりと、奇跡といわれるような事実がいくらも起きて人を驚かせた。

  
このようにして全国に山岸養鶏の名が知られるようになった昭和29(1954)年4月1日には山岸式養鶏会会報創刊号が、第二号が同年9月25日、そして12月30日に発行された第三号には、『ヤマギシズム社会の実態 世界革命実践の書』が発表され、山岸会の真目的が明確にされていった。

  
こうした会報に山岸さんは堰を切ったように寄稿し、稲と鶏と幸福についてはっきりとそのつながりを明示したのだった。

  
○私たちは養鶏に携わっている関係上この道で世界の幸福につなが る日本を豊満にしたいと願うものだ。

  
○養鶏するのも、そうした目的のためだ。

  
○今の世界機構及び日本の現状では、飼料や人間の食糧を輸入する 代わりに、鉄鉱や原棉などのように加工して再輸出出来る原料を 入れることで多数の失業者が職を得られ、一方技術や生産設備の 低い国の人々に親切に行き届いた仕事を施し、汽車や商船、漁船 や機械を送り、又生活を豊かにする良質、低廉な衣料を提供する ことだ。

  
○そのためには養鶏を農家に採用することで、養鶏で儲けるのでは なく取り入れることで農業経営を向上させ、国内で食糧・飼料を 自給し、多数農民に職を与え、安価で豊富な生産卵肉により、農 家・消費者の健康を増進し、食と家計を豊かにすることだ。

  
○日本の人口が一億になっても、耕地を広げず現在面積で賄える。 一粒の飼料・米麦を輸入しなくとも、鶏卵を三倍以上生産し、米 と鶏卵肉が飽食出来るのだ。

  
○こうして一千億円浮かして山河を治め、賠償の欲しい国々に決済 もしていく。

  
○それは空論や遠い理想ではなく、間違いなく実現し得るのだ。空 論ではなく実際方法があるのだ。

  
また、この年の秋の台風13号の大洪水で宇治川が決壊して、山岸さん宅も田も鶏舎も水没してしまった。ところがその中で農業養鶏の形で飼養していた150羽収容の一棟は、一羽も死なずに浮き上がった敷藁の上で卵を産み、生存しており一驚したという。その鶏舎は初生雛から鶏糞を一回も取らずに、その上へ麦稈や螟虫刈した稲の穂や、虫を食べさすため敷藁代用を兼ねて投げ込んでおいたものが全部浮き上がったもので、農業養鶏の良さがこんなところで奇跡的に発見されたことは、他の損失を償って尚余りある収穫であると愉快に思ったという。それともうひとつ耕地は水没し、今年一作は問題にならないが毎年生産鶏糞全部を耕地に施して、地力の繰越赤字を黒字に置き換えて土地力貯蓄に努めていたから、地力貯金はそのまま明年を待っている事実に言及している。当時は土地の肥沃化のために直接魚粉や大豆粕を田畑に施すほど贅沢な不合理単純農業が一般的だった。

  
しかし、家財産は先のジエーン台風での家屋の倒壊に、一年置いて地震に遇い住家が約一尺沈下し、土蔵が傾き、今度の水害で家は荒屋となり、修復に百万円以上いるそうで、今の身では思いも寄らず、田畑一町六反は収穫皆無に近く、加えて若雌約一千羽が水死してしまった。税金の滞納、水害融資の元利返納の催促状が矢のように投げ込まれた。余儀なく田も四反歩減らしたが焼け石に水だった。いつしか「養鶏に失敗して止めた男、口先のみの人間」との陰口する人、非難する人、他人事はそこそこにして自分の儲かるようにしなさいと忠告する人、言うことが桁外れで頭の調子を心配してくれる人もあり、残るものはこうした悪評と借財と病弱の今日だった。現実、目のあたり草芒芒の破れ世帯を見てからでは、よっぽど自分がある境地に居らないと山岸さんの心のうちを見通すことは難しかったに違いない。

  
しかしこうした一連の災難も山岸さんには少しも不運だとは思えなかった。見る人にとっては不幸の連続だが、観方によっては不幸の部類に入らない甘い不幸でしかなかった。何故なら今、自分の心の眼前は希望と歓喜に輝き、求めたものが得られた幸福に充満しているからである。青年時より理想世界の実現を計画し、近年その方法について書き綴っていたところ、こうした有形物の減耗するに反比例して四囲の情勢が好転、その日の近いことと確実なことが明瞭になってきたことを物語る動きが次々と生まれてきたからである。 事実この年の10月3日には山岸式養鶏会第一回全国大会が大阪枚方市内の小学校にて三百名に及ぶ参加者を集めて開催されている。そこでの山岸さんの講演では先の台風にも触れて……

  
○農家の場合、隣の美田を見て喜ばず、倒伏の田を見て喜ぶ人があ るそうだが、私にはこの心境が分からない。

  
○各種の天災だと思われてきたことも、人間の力でこれを最小限に 食い止めることができるはずである。台風も卵のうちに手を施し て成長ささぬ方法があると思う。私にその計画もあり自信もある。○不可能事も一歩一歩条件を整えていけば終局において解決できる と信じる。これは、自分だけが天災から免れたと喜ぶ心からでな くて、進んで他人の被害に深く悲しむ心からによってのみ出来得 ると思う。

  
夜は近くのお寺に会場を移して、「幸福とは何か」と幸福問題について発言者は立って次々と信念や体験を発表した。ふと気がつくと、もう障子にほの明るい朝の光が差し込んできた「夜明し会」になっていたという。

  
養鶏普及会は次第に養鶏する真の目的は何か、それは社会浄化であり、自分達の住む世界を自分達の努力によって住みよくする幸福活動であるという方向へと脱皮していく。これには五五会(毎月五日・十五日・二十五日に開かれていた山岸会の運営に関する研鑽会)が大きな推進力となった。中でも昼は会員の鶏舎の見学や養鶏技術の質疑応答に割かれたが、夜は時間に制限なく理想社会への問題をシンミリ語り合うことから自然と心が触れ合い、この夜明し会から山岸会の精神的基盤が培われていったのである。この夜明し会が、はっきりとそこでは理想社会、即ち幸福社会を主に研鑚することから「幸福研鑽会」と名付けられたのは昭和29(1954)年12月15日の五五会からである。

  
この夜の幸福研鑽会で山岸さんは、来る12月30日発行の『山岸会・山岸式養鶏会会報第三号』に発表さるべき160枚に亙る原稿の主要部分を所々に解説を付して前後3時間に及んで読み続けられた。そしてその後の質疑応答の中で

  
理想社会の実態について、その概要、社会の構成、それから過去から現在に至るまでこの理想社会実現に幾多の人の努力をもってしても何故実現しなかったのか、我々はここに人間の持つ知能に頼り、人間愛によって温めてする革命の立場に立たねばならぬことなど、知的革命の意味から、最後に一卵革命の運動に至るまで、噛んで含めるように説明されたという。

  
突然大阪の会員さんが、「先生、今までこんなに親切に分かりやすくいって下さったことがあるのですか」と感きわまった声でいうと、一同ハッとして居住まいを正した。自分のいわんとする言葉そのままであったからである。

  
実に暁の今に及んで、一同分かったのである。そしてさらに深い感慨に静まり返った。

  
この日の京都・長岡町の会員宅で開かれた長岡幸福研鑽会は、かくして歴史的な意義を持って閉じられたのである。この時発表された原稿が、『ヤマギシズム社会の実態 世界革命実践の書』であり一人の例外なく万人洩れなく永遠の幸福をつかみ得る道を明示した革新の書として、ヤマギシズム社会の実態づくりを目指す人々の唯一の研鑚資料となるのである。

  


  
2 特別講習研鑽会の開催

  
翌昭和30(1955)年1月には「山岸会式養鶏の急所と成功への道順」、3月には「二つの幸福 真の幸福と幸福感」などのパンフレットを通じて、全国各地にヤマギシの農業養鶏が農家に受け入れられる下地が出来ていくと共に、養鶏は理想社会実現の一つの手段であり共にその一環であることを根気よくいい続けていく普及に力が入っていく。心ある有志の会員たちは、日夜東奔西走日本中を駆け巡りながら同じ考え方を持つ人々を続々と探し得て協調の手を差し伸べつつあった。

  
そのことは”何ゆえに鶏を飼うのか””自分だけの儲けのためでない””山岸会式養鶏の目的””仮の幸福(幸福感)に生きる愚かしさ””ヤマギシズム社会は幸福研鑽会から”といった見出しからもうかがえるだろう。この養鶏法は必ず全国を風靡し、卵と米は充満して満ち足りる日は近くにあり、その日になって(物が満ち足りて)この精神を伝えては遅い。今人々の不足感に悩む間にこそ伝えるべきだとの思いがあったからである。

  
この時期における山岸さんから一会員宛の便りが残っている。

  
前略 過日は五五会で忙しくしていましたので、お話も出来ず残 念でした。八木の支部にもそんな変り者が居たということは知ら なかった。変り者を探している。変り者を探し合って、変り者の 大きなかたまりを拵え、変り者を変り者と観る変り者でない人を 変り者にしようじゃありませんか。そして世界中の人皆変り者に 変えましょう。

  
変り者を十六日に送って下さい。

  
昼は向日町で養鶏。

  
夜は当向島で変り者の変った会をやります。

  
(ハガキ 1955.6/8)

  
10月には第二回山岸会全国大会を明石市で開催し、山岸さんは「どうしたら私の言うことが判って頂けるのでしょう」と題して懸賞一万円付きの懸賞問題を出題している。

  
1 山岸養鶏の終局目的は

  
2 山岸養鶏に真に成功するには

  
3 山岸会とは

  
この間山岸さんは方々の会場に招かれては講演しているが、どうもわからん話ばっかりして人気がさっぱり悪かった。養鶏の講演会に来る人は鶏を飼って金を儲けようと思っている、だから鶏を飼って本当に儲けて頂くために話をするのだが、関係ないこと用のないこととして話が通じない。結局言葉が通じるようになってからでないと駄目だ、ということに思い至る。

  
つまり根本からやらねば、絶対に儲かる養鶏は判るものではない。本当に知るには、山岸養鶏の言葉遣いから覚えることで、お互いに喋れるような状態になって貰う必要があった。山岸会では、絶対に損をさせないことになっています、絶対に怒らないことになっていますし、絶対に腹が立たない人になれるといっても、「そんな無茶な話しあるかい」「そんなこと出来ないよ、人間は感情の動物だから…」と、すぐこれが出てくる。これでは話にならない。

  
やはりそれら見当違いの自己断定の盲説を一掃する意味で、私の言うことがそのまま聞き入れてくれて、また向こうの言うことがそのまま私に通ずる、といった態度をつくる機会、場の必要性に迫られていた。

  
この間の毎月の幸福研鑽会の実績を見ても、腹が立たなくなる、ということ一つだけでも大変な発見で、これは人間幸福条件の大きな要素になるものだ。その他最も肝心なすべての考え方の基本となる研鑚方式の独特の発見は驚嘆に値するものがあった。

  
このことは山岸養鶏に成功する確実で賢明な方法である以上に政治、経済、教育、心身の健康、家庭、個人、社会のあり方についても本当のあり方を探求する方法としてこの研鑚方式を以ってすることで解明されていく効果があり、これの効果を高め急速に広く普及する方法として”特別講習研鑽会”を開催してみることになったのである。

  
このようにして第一回の山岸会特別講習研鑽会(略称、特講)は全国からの150数名の参加者を得て京都府長岡町の光明寺を会場として昭和31(1956)年1月12日から一週間開催された。会場はお寺に限らず150人内外の人が寝食を共にし、話合えるだけの広さがあればいいわけで、その後は旅館や公会堂や学校などの建物を利用したことがある。そしてそこでの研鑚資料としては会報3号に掲載の『ヤマギシズム社会の実態 世界革命実践の書』が使われた。

  
第一回特講

  
かくして特講終了者のほとんどが、自分の喜びを家族はおろか近隣の人々にも分かち合いたく寝食を忘れて特講参加への呼びかけに奔走しだした。

  
何せそれまでは人生には怒り・悩み・苦しみがあって当然と思っていたのが、人生は快適であり幸福一色であるべきを真の人生のあり方とする人生観に転換して、毎日が何と楽しく愉快でたまらない。やること為すことみな自分の思い通りに運ぶのだから。まさに一粒万倍の言葉どおり、全国から続々受講生が押し寄せて、矢継ぎ早に特講が開催されるようになった。

  


  
3 「百万羽養鶏構想」への結集 

  
特講が年間を通じて毎月連続的に開催されるようになると、次に三泊四日で特講終了者に限って、山岸さんの自宅で山岸会高度研鑽会が連続的に開催されるようになってきた。他に従来からの会の運営について研鑚し、決定し、具現する五五会と月に一回の養鶏専門研鑽会と幸福研鑽会が持たれるようになった。

  
こうした特講が回を重ねていく中で、運動は新しい段階に入っていく。この年の秋頃から、一体つまり一つの世界を夢物語にしないで現実に現してみたいとの気持からの研鑚が各地の会の支部で始まるようになってきた。養鶏にしても、卵肉の生産、土地の肥沃化を図り米麦、果実その他の増産に努め、一体養鶏の妙味を発揮して一日も早く理想社会を達成したいという話題が交わされるようになった。

  
おりしも当時『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言し、流行語になった頃で、日本経済は朝鮮戦争による特需で工業設備の投資や新しい技術導入を積極的に実行に移すきっかけをつかんだ。その反面、家族労働のみを頼りにした封建時代からの勤労主義による個別農業経営では、目覚ましい経済発展速度に追いつくことは不可能になり、日本農業の生きる道は恊業・共同化による経営に切り換える合理化が迫られ始め出していた。

  
なかでも特講終了者同士の地域での鶏舎建設や稲刈りでの一体作業は人間関係における仲良しに重点をおいているので、一般にいわれる共同経営とは全く違って目覚ましい成績が上がった。例えばありふれた共同作業とは違って、各戸何人ずつ何時間働かねばならないなどという規則も決めもなしで、手伝って貰ったからお返しがどうという意識もなく、手伝ったからとて何の要求も怒らない。休み時には、以前は水げんかをしたことのある田圃の畔に丸くなって座ると、よもやま話に大笑いで部落の気風が一変したという。

  
そんな各地の会支部での盛り上がりの中で、既にいくつかの「一体経営」のモデルを見るに至る。当時の新聞には「すばらしい共同体--持ち場を決めて楽しく」(『毎日新聞』和歌山版)「共同生活で農村の楽園築く……心の家族の合い言葉で結ぶ四家族」(『京都新聞』市内版)という見出しで報道された。

  
一方、会からも一大飛躍を期して新構想が打ち出された。”百万羽科学工業養鶏構想”である。

  
一か所にストライキも社長もない百万羽の養鶏場を作り、工業生産で最も安い卵を作って、それを卵粉に加工して輸出し、見返りに飼料を輸入して国内畜産を振興するという、画期的な養鶏場構想である。それは乏しい国が食糧・飼料まで輸入して内需に終わることは日本経済を益々不健全にするものであるという観点から、まず内需用卵肉は、農業養鶏によって農家の自家産及び国内原料で生産して充足し、次に輸入飼料での生産物は外需に向ける結果となるようにして、貿易アンバランスを好転せしめ日本経済の安定を図ったのだ。そうすることで「百万羽養鶏構想」は世界の日本に対する不快感・不安感を除くことになり、全人類の幸福につながる意義ある産業であることを強調し、それの実行の同志をつのったのである。

  
まず、三重県四日市市に創立事務所が設けられ、この構想に賛同した全国の同志が続々と四日市市に集合してきた。

  
しかし、農民が先祖伝来の家・田畑を売り払って一か所に集結するなぞという行動は完全に常軌を逸脱するものだ。特に農村は皆自活している。人に飼われないで生きているので強い。そこから命までもの人々が続々と現れたのである。当時参画された多くの人に共通していえるのは、やはり

  
言葉でなしに親愛の情を基にしての、かつてない、争いやごまかしのない愉快な理想のモデル百万羽養鶏は非常な魅力だった。

  
もちろん家族や親戚からは猛反対を受けて泣きつかれるが、その過程で益々気持が固まり、何といっても心一つの人達と共に考え、共に行い、共に生活していけるという最大の魅力があったという。 いずれにしても、形なきものにその真価を見出だし、自らの幸福の糧にしてこられたに違いない。

  
昭和33(1958)年7月3日四日市市赤堀で約二百名の人達で”山岸会式百万羽科学工業養鶏会社創立総会”開催。

  
工場建設用地は、地元の誘致により現在地、三重県阿山郡伊賀町の春日山に決まった。8月12日には起工式が行われ、10月15日には盛大なヒナ入れ式が行われた。

  
こうした経過をたどり、老人・幼児を含め総勢二百数十名は、建設部、厚生部、飼育部、研究部、一般労務部、拡大部等々の新しい配置につき、研鑚で進めるという全く新しい仕組みづくりに挑んだ。もちろん、鶏を百万羽にしていくこと以上に、もっと大切な一体の世界を創っていくことに力が注がれたことはいうまでもない。

  
そのあらわれとして、百万羽建設が軌道に乗るに従い、山岸会本部事務局も長年すみなれた大阪府山崎の事務所を引き払い、昭和34(1959)年6月10日、春日山に移転した。次の段階への飛躍を熱望してのことであり、それは、急速に全国民を特講に送る急進拡大運動の具体化を意味していた。

  
山岸会は一切をあげて「急拡態勢」を整え、来たる時に備えた。期せずして全国の同志に電報が飛んだ。

  
「ヨウアリ スグ コイ」

  
親であり子であり、兄弟、近隣、そして全世界の人々に一日も早く真の幸福を知ってもらおうとの熱願行為が一通の電報となり、各地に打電された。6月18日からの特講(参加者百余名)、7月1日からの特講(参加者九十四名)の開催がそれであった。

  
電報を受け取ってかけつけ、打電者の熱意に動かされて特講を受講した人々には電報の真意が理解出来たが、受講者の家族の一人が「受講者は強制監禁され、洗脳されている」と訴え、地元警察に関知するところとなったのが昭和34(1959)年7月1日からの第86回特講である。

  
かくて春日山は武装警官の包囲するところとなり、7月10日未明、不法監禁罪容疑で特講関係者は逮捕されたのである。

  
”事件”以後の山岸会会員や百万羽は、弾圧や様々の困難に遭遇した。とりわけ、春日農場の財政緊迫、裁判、山を去る人々、機能を失った会組織、おまけに天からの嵐(九月の伊勢湾台風)で宿舎が吹き飛ぶ試練を受けた。しかし、そうした悪条件にもくじけず、行商に行く者、旅館に住み込む者、またある者は東京や津市での特講開催を準備しつつあった。

  
この年「Xマン」「Z革命」などの言葉が国内で流行語になった。

  
4 ヤマギシズム実顕地の誕生

  


  
昭和35(1960)年秋、日本は岩戸景気を背景に当時の池田首相は高度経済成長、所得倍増計画を発表する。農業面においてもこの年始めて小型トラクターが輸入されて、農業の省力化・機械化が始まり、農業人口の減少が目立ってきた。共同化・恊業化も含めての根本的な農業の構造改善が真剣に検討されるようになった。

  
それまでの日本農村の一番の悩みは、次男三男問題であった。農繁期には必要な労働力だが、相続で三等分したらそれこそ零細化してしまうところである。経済成長にともなう若年層を中心に農村から都市への人口移動は、ある意味では一つの解決策にもなった。

  
その頃全国至る所で見られた天窓付流線屋根の平飼鶏舎の日本農業に結び付いたヤマギシの農業養鶏も、今や家族単位の経営では日進月歩の技術を取り入れたり飼料の購入や販売先を臨機応変に対応して経営することは到底専業家に及ばなくなってきていた。なかにはいつしか鶏舎が倉庫に変わっているところも出てきていた。

  
昭和36(1961)年春、ヤマギシズム実顕地構想と社会式養鶏法の発表があり、各地で説明会が持たれ出した。

  
そこで山岸さんは……

  
今迄から山岸式養鶏法として、その中の農業養鶏を出してきて、まず家庭が一つの単位になり、それからその家庭が幾つか寄ってそれぞれ実績を見てきた。

  
その次に工業養鶏の形態で、ゼロの位置から皆が寄って、そして研究し、試験し、それから作り上げていくものが、百万羽養鶏という名称でたくさんの人が寄ってきた。

  
特に研究・試験に力を入れて検べていくと、鶏を入れる前の準備、基礎になるもの、つまり最初から自分が願っていることの必要性がやはり浮かび上がってきた。鶏、餌、技術の前に、経営だとか飼う人の問題になってくる。

  
今までお金儲けたら幸せになる、こういうふうに思ってた人も、鶏飼うのもやはりお金儲けの目的で、そういう程度でいた人も、目標が誤っていたと気付く人が多くなってきた。目的は鶏でないと。 やはり飼う人自体が、自分の幸せでなしにみんなの幸せ願って、そういう気持ちになって、頭で分かったでなしにそれが実行出来る人になって、それからその次にそういう自分になっただけでなしに社会も周囲の必要性ということが分かってきた。

  
それじゃあホントに世界一つになって仲良く繁栄していく、そういう社会創ろうやないか。

  
そのためには自分の財産だとか自分の考えを固辞しないでみんな広場に出して、みんなの知恵と力で活かしていこうと、ものを最大に活かしていこうと、こういう気持の顕れが今日の地方での実顕地なり春日の試験場の段階的な現状だと、そこまでこられたと思う。 それなれば、お約束しておいたヤマギシズム社会、即ち世界一つで仲ようて、そういう社会においてこそ使いこなせるヤマギシズム社会式養鶏法を出し、使ってもらったら結構だと、こんなところまできたわけなんです。

  
山岸会が発足してはや9年目の春であった。

  
一世を風靡した農業養鶏は、あくまで今回発表された「ヤマギシズム社会式養鶏法」の適合する、実施の絶対条件である「ヤマギシズム社会(実顕地)」誕生のための前渉準備過程のものだった。それは殿堂を築くための足場であり、仮屋根としての必要行程であったとも例えられるものだった。最初から社会式養鶏を発表した処で、養鶏の方法としてしか解されなく態勢作りがなされなかったからであろうか。

  
しかしこの頃既に山岸さんは死期を悟っていたのか、研鑽会の場で何度ともなく

  
「本当は私はこれに限らず今まで考案したものがたくさん頭の中にあるんですけどね、これを早く受け取って、肩の荷を空かしてもらったら非常に助かると思うんですが。どうもおこがましいと思われるか分かりませんが、この真理探求、この非常に疲れますから、逃れようとするんです、何とかこれ……。

  
今までから随分それを願ってきて、だいぶそういうようなことが分かって頂けるようになってきたわけなんですが。話の通じる人が欲しい、早くなぁ、早くそういう情勢つくって、聞ける場所、言える場所、そういう場所つくってもらったら結構だと思うんですね」と真情を吐露している。

  
昭和36(1961)年5月3日、山岸さんは今度の実顕地養鶏法の説明会を兼ねた岡山地方の会員宅に於いて研鑚中俄かに頭痛を訴えそのまま重体に陥り、翌4日亡くなった。

  
これ以降ヤマギシズム運動は、明確に理想実現の具現方式をもつ一体社会実現の方向へと堅実に歩み続けることになる。毎月連続に開催されている特講も7月には百回を数えるまでになり、この年の1月に誕生したヤマギシズム生活北条実顕地(兵庫県加西市)やそうした実顕地で暮らせる資格を身に付けるためのヤマギシズム研鑚学校の開催と共に会の機構も着々と整備進められていく。

  
なかでも春日の試験場と研鑚学校と各地の地域社会で活発化している現状そのままで一体生活を実際に顕現しようとする実顕地造成の組み合わせは、ヤマギシズムによる一体社会の基盤となるものであった。

  
翌昭和37年5月4日には、山岸さん一周忌の墓前祭と実顕地養鶏試験場の開設を祝うヒナ入れ式が春日山で盛大に開催された。

  
ヤマギシズム実顕地は、現状そのままの状態で出発し、その後情勢の展開につれて合理化し、内容を充実して、だんだんとイズムの実顕地らしい実顕地へ移行進化していくもので、その間その人のイズム理解や体得の段階により、イズム実践活動も各自まちまちであり、イズムのあり方からすれば程遠いような一次元の事象もあるが、それを型にはめて形の世界で納めるのでなくて、本人の内面で気付いて心の底から改変できるよう、その機の来るのを気長に待つ場合もある。

  
事業面は現法下での法人組織とし、現法制に即しながら財布一つで給料や分配などがないヤマギシズム生活を営み、税金を含む社会義務にはそれぞれ協力し、親戚近所付き合いや、官公庁その他いずれとの交際や義務行為も心から行い、現社会の恩恵を受けて生きている関連を良く知って協調しながら、理想社会に発展させていこうとしているのである。

  
各地に何家族かで実顕地を希望すると、個人生活からなれない一体生活に入るわけだから、最初のうちは戸惑うことが多く、その人達だけでは事が運びにくいのでまず希望者で何日間かの研鑽会を開き、実顕地造成の世話係がその時の産婆役を務めた。

  
研鑽されるテーマは、「自由・平等について」、「共同と一体の異い」、「規則・分配・監視・罰則について」、「宗教と研鑚」等々、実際の生活上の話題に即して研鑚された。一体をやるかやるまいかと迷っていた時とやると踏み切ってからの心境の転換ほど、見事なものは他にないであろう。人と人とを隔てていたものが溶けた時の何ともいえない気持は今も鮮やかに生きつづけ、今後も実顕地の進歩発展への源泉であり続けるにちがいない。

  


  


 回复[1]:  骏骏 (2017-07-15 09:37:57)  
 
  5 適正規模実顕地構想の発足

  
ヤマギシズムの歴史観、つまりやがて世界中がそうなる将来の完成されたヤマギシズム世界から歴史的に振り返って現時点を見た時、私たちは今、何を為しておくことが目標への最短コースだろうか。今までのイズムの展開を振り返ってみると

  
1 ヤマギシズム提案者がヤマギシズムを発想、それの実顕化の実験などしていた時代(昭和20年前後か)

  
2 山岸養鶏普及時代と山岸会発足(昭和28年)

  
3 会員同志春日山に集結、社会革命運動体としての性格が明確化(昭和33年)

  
4 ヤマギシズム実顕地誕生(昭和36年)

  
こうして改めて時代の移り変わりをみる時、その現象面の激変に気づかされる。しかしそれはすべて人為の為せる結果でなかろうか?人の考えや行為でかくも変動させられるものか、またそんなにも動かせるものならと、方向性とそれへの働きかけ如何でどんなにも発展させる可能性が開けてくるようだ。

  
さて、初期の実顕地造成は現政治経済体制下、旧態依然の道徳・常識社会での弱小実顕地の維持は余りにも厳しく、一部実顕地は痕跡を残して分解し、あるいは構成家族の減少など、形の上の事象は多難に見えた時期もあった。理念やあり方は分かっていても、それが生活習慣となって自分の身につくまでの段階で、寄った人の我執がそれを崩してきたのである。

  
一時期流行した共同化運動がある。例えば集落ごとに共同でトラクターを購入して共同作業を進める。これが長くは続かない。共同利用だと作業適期に自分の思うような作業が出来ない。それなら自分で小型の機械を買って思い通りにやりたいという心理が勝ってくる。すると急に立派な共同理念が色あせて見えてくる。初期の実顕地造成の段階でも、同じような事態に直面している。また、一体炊事だといって鍋や釜を一つにすると、家事から解放された身軽さを味合う方向と「そんな窮屈で自由のない生活に耐えられない」と感じる方向とに分かれる場合があった。

  
個人の自由意思を妨げず自分の思い通りにやっていく中で、一体生活が成立つ存立基盤はあるのだろうか。否、もし見出だせなかったら一体生活には何の進展も見られず、そのこと自体の永続性、普遍性、一般性はないのだ。

  
ヤマギシズムの大きさ、広さ、奥深さ、温かさ、容易さ、揺るぎなき真実性はこの時期に培われたといって過言ではない。

  
昭和44(1969)年7月、三重県津市の郊外豊里村の小高い丘の上に一単位規模(約五十世帯)の適正規模実顕地を目指した新実顕地、ヤマギシズム生活豊里実顕地が誕生した。

  
この頃から多くの報道関係者が山岸会を取材、新聞、雑誌、テレビなどで紹介された。昭和45年秋、東京の新宿でヤマギシズム青年祭が開かれ、歩行者天国の場でヒヨコを配った。その時も、マスコミは「生きていたZ革命……山岸会」「ヒヨコで公害フンサイ?」「ヒヨコと革命……山岸会」と報道した。これを機に、実顕地に多くの若者達が参画してきたのだった。

  
適正規模の一単位構想のもとに進められた豊里実顕地は発足以来一年半で、最初の五分の一計画(ヤマギシズム社会式養鶏平面屋内式鶏舎十棟)が完成した。この十棟鶏舎の果たした役割は余りにも大きかった。まさに社会式と呼ばれるにふさわしい機能が次々と発揮されだした。それは単に長さ100メートルの鶏舎が十棟建てられたに止まらず、その地でヤマギシズムの実顕地として生活面でも経済的にも自立し得る最小単位であり、しかもその外観的偉容や付帯・関連事業への発展性、地域開発への拠点性など限りなく周囲へ展開されていく元種的性格を兼ね備えたものだった。

  
以後全国各地に十棟鶏舎を保持する実顕地が誕生するきっかけにもなった。ある時期は、一か月間でそうした十棟規模の鶏舎建設も一挙にみんなの手で仕上げられていった。

  
おりしもニクソンショック、続く石油ショックなどを通して日本の社会自体が経済産業構造や人々の感性ともども大きな体質改造を迫られていた。当時筆者は東京・町田市のヤマギシズム多摩供給所にいたことがあるが、近くの丘陵地帯には続々と高層のニュータウンが出現していた。

  
その頃ヤマギシの有精卵は毎週30キログラムが一配送単位であったから、希望する人は最低20人近くのグループをつくり、しかも始めるに当たって活用者懇談会を開くことが条件になっていた。たいがい夫や子供を送り出した後の午前のひととき、夕食の準備の前の時間帯がそれに当てられ、会場は団地の集会場や家庭の居間があてられ、こちらからたどたどしく正常健康を目指しての考え方や生き方から産まれた生産物であるからどうか本当に活かして用いる者(活用者)になって下さい、と呼び掛けた者だった。話題は食べ物の安全性と子育てが圧倒的に多かった。

  
活用者懇談会

  
手元の昭和史年表をたどると

  
昭和49(1974)年8月……厚生省、加工食品に使われていた殺菌剤AF2の使用を全面禁止。消費者に人体に無害な食品への関心を一気に高めた。

  
昭和51(1976)年3月……北海道からの産直牛乳が急成長、共同購入世帯は10万を超える。

  
などが象徴的にあげられ、とりわけ食の分野での昭和50年度国民栄養調査の結果によると、食事が主食中心から副食中心に変わったことを表している。

  
こうした時期を境にして、それまでの腹さえ膨れたらよい、卵の質に関しても卵一個は一個だという考えでむしろ一円でも安い方が、という世相から質の方にもみんなが関心を向け始めてきたといえよう。

  
各地のヤマギシズム実顕地でもヤマギシ養鶏法から産まれた素晴らしい卵の質を価値どおりに評価してもらえることになり、高級有精卵、鶏肉、豚肉、ミカンや野菜の供給量が飛躍的に増大し、昭和53年には牛乳の供給開始、その後各種農産加工品が次々と活用者に届けられるようになった。

  
当時は生産計画が軌道に乗る前でいつも生産物は足りなめで、子供にはヤマギシのものを食べさせて、主人には店のもので我慢してもらって、もちろん自分はヤマギシのもの……といって懇談会で大笑いしたこともあった。

  
又生産物のつながりから、生産物の故郷へ子供を送る「ヤマギシズム子供楽園村」が興隆を極め、実顕地は子供たちで溢れるようになった。実際あらためて振り返ってみれば、実顕地は子供たちが育つたくさんの要素で充満していた。例えば……

  
○金の要らない仲良い楽しい村での受け入れ

  
○動物園的要素や田園田舎風景の中での受け入れ

  
○実顕地生産物での豊かな食事での村の暮らしの一端を味わう

  
○家庭や学校の縛りから開放された自由な学育広場で

  
○農業を通して土を知らない街の子供に自然界との出会いの場に

  
○楽園村の運営はそこに来た子供たちの自立・自治・自活・自営の 線で

  
○自分達でやって楽しむやり甲斐、楽しさ、生きて汗して動くこと の楽しさなど生きてることの証明をする

  
○お土産に自分たちで収穫した野菜など持ち帰える

  
等など実顕地を訪れた親子にとって、実顕地は心の故郷、第二の 故郷として広く活用されるようになった。

  
ここからしだいに子育て運動の一環として、現代っ子の末路を憂慮した子供革命の必要性を説いてまわる全国運動が始まった。

  
一個人の気持の中では時代とは無関係にただひたすらに鶏や豚などの世話をしていただけのような記憶しかないが、こうして改めて振り返ると、時代の必然の流れの中で私という一個人も活かされているのが分かるようだ。いや時代を歴史をつくってきたのは今迄も今後も実は世界中一人洩らさない私たち一人一人の総意であるといえるところまで行きたいと願ってやまない。

  

 回复[2]:  骏骏 (2017-07-15 09:38:26)  
 
  6 21世紀のヤマギシズム実顕地

  


  
1990年代、世界は今世紀最大の谷間に落ち込み、その出口すら見出だせないで長期化の様相である。敗戦でもなく一方的に内部崩壊した東欧的社会主義国がそれの象徴であり、崩壊こそ免れたが、現状社会主義を進化する思想も方式ももたないまま、社会主義統制経済から社会社義市場経済への移行とチャンポン技術でこの難局を乗り切ろうとして要る中国やそれに続く北朝鮮延命工作にすぎないのではなかろうか。

  
かたや人間社会を人間主義でなく資本主義で行かんとする国々は、弱肉強食思想など、間違った根本思想の上に構築された砂上の楼閣だから、バブルの崩壊、生産過剰による価値低下、貧富の差、弱者淘汰、景気不景気の変動など限りなく難問題が発生し、真なる安定が有り得ない。物余り不景気と物不足貧困、死者が同じ地球上で共存し、宗教対立、民族紛争、小国独立、権力闘争、排他運動など、今地球上は現世の悪の裏も表も露骨に輩出しているようだ。

  
こうした時代背景の中で、1970年代は個々の実顕地の適正規模構想への拡大が進められ、1980年代は実顕地生産物の生産とそれの活用者への供給を通して山岸会運動の運動基盤と実顕地の経済、産業、生活基盤が同時に確立されていった。

  
それと共に全国、海外各地に点在していた実顕地が面として一つのヤマギシズム社会としてスタートするべくいろいろの方策がとられ始めた。それはたとえば、既成の資本主義経済などの所有経済とヤマギシズム本来の無所有経済との二大大別世界観の分類を一人一人の社会観のなかでも明確化して、ヤマギシズム理念に即した生活や経済の実際の運営や制度の考案開発にもつながっていった。

  
それはヤマギシズム運動の革命性をあらためて自覚することでもあった。そのことは『ヤマギシズム社会の実態 世界革命実践の書』を、書でなくて実態そのもの、実顕地そのものにしていく深まりを意味していた。

  
こうして1990年代からは、新しくヤマギシズム社会化実現へのページがめくられた。

  
既に全人幸福運動の一環としての本物の食糧を生産し豊かさを人類に供給する生産供給活動は軌道に乗りつつある。

  
そして全人幸福運動の本命、真の人間への革命と真人類の育成の大業を成し遂げる場として実顕地は最適環境であることは既に子供楽園村などで実証済みである。子供楽園村こそ子供の特講であり、教育から学育への革命である。やがてあまねく全国教育界を風靡することは明らかであろう。

  
一方ヤマギシズム学園も平成2(1991)年より幼年部・初等部・中等部・高等部続いて大学部と全課程ヤマギシズム学園化されるまで発展し、この運動の中核的後継者としてスタートした。

  
これからの時代は政治経済力でなく、人員、人材力がすべての推進力の原動力となるであろう。実顕地は子だくさんの「子宝」の宝庫の森であり泉である。21世紀繁栄への源泉がここにある。

  
時代がヤマギシズムを求む。ヤマギシズムが時代を救う、の持ちつ持たれつの関係で発展していくのではなかろうか。

  
環境問題は、実顕地の動植物循環の環境保全産業で

  
教育問題は、ヤマギシズム学育で

  
高齢化問題は、老いてますます蘇るヤマギシズム生活で

  
と、今の社会ではどうにもならない難問題を事も無げに既に解決してなお深めつつある事実に世界中から観に来た人達は驚かれるであろう。

  
何も持たない裸の人達の群れ、それが真の自由人と呼べるだろう。地位名誉はもちろん、自分の家も財産も持たないからか、あの気楽さよ、楽しさよ。ヤマギシズム実顕地は、何も持たない放した裸の人達の群れである。今や続々と真人類、ヤマギシズム学園出身の若者達がこの地球上の檜舞台へと巣立ってきている。

  
しかもこれからの情報化社会では、土地や労働力、技術などの経営資源を自分らで保有する「囲い込みの発想」の意味がますます薄れてきている。持たない、放すの真価が発揮されるのはこれからである。

  
地球上いたるところに我が家あり、田あり、山あり、畑あり、工場・商店・倉庫あり、蔵にはもの・金無尽蔵。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが身代わりにいろんな仕事をやってくれている。世界中どの地へ行っても、食と宿で迎え合う、親しい温かい心が待っている。

  
自分の行動も物も経済も一切心一つに合わせた「一体」にまかす。しかも当初の春日山のように家、財産を売り払って集合しないでも、現状そのまま、その場で一体に融合出来る仕組みがますます発揮されるのではなかろうか。現行の経済機構、法制下そのままで、他から命令や強制もなく、どんなに距離が離れていてもその日から一体の財布一つでみんなの考えで行動できる社会が容易に世界中の街中に顕現されていくだろう。

  
こうした具現方式を即実行、具現出来る人は、その境地に入った余程進歩的で世界の先端を行く、まれに見る人達において為されるであろうが、今や実行家の続出することは火を見るより明らかになってきた昨今の情勢である。

  
全人の幸、思うものに行き詰まりなし

  
はてしなく広がるわが世界

  
人生これ快適--。

  
2000年春、佐川 記

  


  
来源 http://www.kasugayama.or.jp/colum/newpage2.htm

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